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作成: 2024-05-12
作成: 2024-05-12 09:31
まるで空に穴でも開いたかのように、ここ数日は雨が止むことなく降り続いていた。低い階段に座って雨音を聞きながら、君の便りを開いたよ。
便箋の隅々まで染み込んだ墨の色は、雨に濡れて散っていく花びらみたいだった。君の心の奥底から湧き上がってきた言葉たちが、一枚の紙を隔てて僕に届いたんだ。
まるで雨音さえも静まり返って、世の中全体が君の話に集中しているようだった。
雨_フィンセント・ファン・ゴッホ(オランダ人、1853-1890)
『どうして僕たちの人生には不幸なことが起こるのだろうか?どうして悪い人に会って苦労しなければならないのだろうか?』という君の言葉に、僕も久しぶりに物思いにふけったよ。
君は僕が輝きすぎる人間だと言ったけれど、僕も時々ロウソクよりも小さな光を放つ日があるんだよ。誰にも言えない秘密だけど、僕も『自分が悪い人間だから悪いことが起こるんじゃないだろうか?』という自責の念に苦しんだことがあるんだ。
でも、人間なら誰でも、時には弱気になって自分自身を疑う時があるじゃないか。そんな暗闇の瞬間を乗り越えると、成熟という贈り物が与えられるんだよ。
雨の中、帰宅する(1860 - 1869)_匿名
"私が良い人なら良い人に巡り合うはずなのに、私はこの全ての不幸は自分のせいだと思う。"
君はそう言ったけど、いくら考えてもおかしいと思わないかい?傷つけたのは相手であって、君じゃないだろう。君はできる限りのことをして、礼節を守っていたんだ。
相手が無礼だったことまで君のせいだと言えるだろうか?
僕はそうは思わないんだ。僕たちがコントロールできるのは自分自身だけだろう。相手の行動や態度は、完全に相手の性格に左右されることなんだ。
そして、最低限の礼儀も守れない人のせいで、罪悪感や自責の念を感じるには、人生はあまりにも短い。悪い人たちのせいで、君が傷つかないでいてほしい。
雨の中の傘(1899年)_モーリス・プレンダーガスト(アメリカ人、1858-1924)
君は傷つくばかりで、人生に幸福も成長もないように感じると言ったけれど、よく考えてみてくれ。今回のことで、君だけの境界線がはっきりしただろう。
『何となく生きていけるほど人生は長くはない』の著者、鈴木ユースケ氏は『他者の侵害に敏感になるほど、自分は何を嫌っているのか、自分にとって不要なものは何か、自分が本当に何を心地よく感じ、何を望んでいたのかを知ることができるようになる。』と言っている。
振り返ってみると、僕もそうだった。感謝を知らない人が嫌だと言いながらも、本人は相手に感謝する事を知らない厚かましい人に会ったことがあるんだけど、その時に『ああ、僕は礼儀を知らない人とは合わないんだな。』ということをはっきりと認識して、そういう人とは深く付き合わなくなった。
君も分かっていると思うけど、人にああいうことを言う人って、本気で相手に感謝の気持ちを感じている人って少ないんじゃないかな?詐欺師が『私は決して詐欺師ではありませんが~』と言うようなものだ。
君の便りを全部読み終える頃には、こんな気持ちも湧いてきた。
虹のある風景_エドワード・ダンカン(イギリス人、1803-1882)
もしかしたら、君が人に傷つけられて辛い時期を過ごしているのは、もっと良い人に巡り合うために、ちょっとだけ夕立に打たれているようなものなのかもしれない。元々虹は、土砂降りの雨が止んだ後に顔を出すものだろう?
僕たちは誰かを変更することはできないけれど、誰かと交流し、コミュニケーションをとるかどうかは選択権を持っている。君が経験した痛みや悲しみは、きっとより良い人に巡り合うための短い夕立に過ぎないと信じているよ。
僕たちが生きていく中で、時々悪い出来事に遭遇したり、悪い人に会ったりするのは、まもなく良いことが起こり、良い人に会えるという一つの合図なんだということを忘れないでいてくれ。すぐに君のための虹がかかるだろう。
追伸。
他の話は近いうちにまた手紙で伝えるね。今日はキラキラ輝く星のように、もっと幸せでいてね。
中国の前漢時代の書物『淮南子』の『人間訓』に由来する故事成語。直訳すると『辺境の老人の馬』であり、解釈すると『人生の禍福、つまり幸福と不幸は変数が多いため、予測したり断定したりすることが難しい。』という意味である。簡単に言うと『幸福と不幸がどうなるか分からない。』という意味である。
通常『人生は塞翁が馬』、『人生万事塞翁が馬』の形で用いられる。人生のことは辺境の老人の馬と同じだという意味である。
-出典:ウィキペディア
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